国連軍司令部の再調整を要求する巡礼を決心して2006/04/10 570

国連軍司令部の再調整を要求する巡礼を決心して
 
 米軍をテーマにした写真活動を行いながら歩いたりしている間に、駐韓米軍問題の新しい事実を発見することになった。我々には国境で分けられている韓国と日本という国が、米軍には同じ一つの戦場であるということに気付くようになった。時間ができると各地の皆さんを頼って日本の米軍基地を見て歩いたのは、このような理由からであった。
 佐世保の米軍基地を見て回った時のことである。基地に沿って歩いていて夜を迎え、基地が見える山の上で夜を過ごすことになった。基地中が、響き渡る起床ラッパの音に目を覚ましていた。軍人達が点呼の準備などで慌ただしく動くのが見え、8時になるとアメリカの国歌(God Bless America)が鳴り響きながら星条旗が司令部建物の前に掲揚された。今度は君が代とともに日の丸が揚がった。そして、もう一つの旗竿に青い旗が音もなく揚げられていた。あたかも風が旗を揺り起こすように翻し、私はそれが国連軍司令部を象徴する国際連合旗(United Nations Flag)であることが分かった。佐世保は国連軍司令部の傘下の基地であったのである。国連軍司令部は世界的に朝鮮戦争(Korean War)の時に初めで唯一創設された。だから、佐世保は駐韓国連軍司令部傘下の基地であるわけである。日本に国連軍司令部の基地があるなんて、衝撃であった。後になって分かったことであるが、駐韓国連軍司令部の後方指揮所には日本の7ヶ所の駐日米軍基地も含まれている。東京の横田米第5空軍司令部基地、神奈川のキャンプ座間、横須賀米海軍第7艦隊基地、佐世保の米海軍基地、沖縄の嘉手納空軍基地、普天間の米海兵隊基地、ホワイトビーチ米海兵隊基地など、駐日米軍の核心的な基地である。駐韓米軍と駐日米軍は国連軍司令部の名の下、完璧に統合した戦闘組織を整えているわけである。「吉田・アチソン交換公文」(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約の署名に際し、吉田内閣総理大臣とアチソン国務長官との間に交換された公文。1951年9月8日)を通じて、国連の会員国が極東での国連の活動を行う軍隊を日本に駐留させることができ、日本が施設や役務を提供することに合意することで法的に公式化されて久しい。
 先頃、新ガイドライン、周辺事態法、有事法が成立しているが、これらの法律だけではアメリカと日本が朝鮮半島(韓半島)の戦争に即時介入することはできない。しかし、吉田・アチソン交換文書は日米の朝鮮半島戦争への即時介入を保障している。何故なら、他の地域の戦争と違って朝鮮半島での戦争は国連安保理の決議を引き出すための複雑な過程が要らないが、これは朝鮮戦争の休戦協定によって未だに国連決議が有効で、依然として国連軍司令部が存在しているからである。即ち、国連軍司令部の作戦指揮に依って即時的な戦争ができるわけである。駐韓米軍が漢江以南に完全に移動すると、米軍は北朝鮮の直接攻撃対象から逃れることになるため、60日間アメリカの大統領が任意に戦争の遂行ができるようにした1973年の米議会「戦争権決議」は無効になる。しかし、国連軍司令部が存在することにより、アメリカは国連軍司令部を動かして、いくらでも即時的な戦争突入ができるようになっている。1994年6月15日、ホワイトハウスによる朝鮮半島での戦争の試みは、米軍が直接的な攻撃を受けたこともなかったし、韓米連合司令部の統帥権者である韓国の大統領とアメリカの大統領の協議もなしに進められていた。このように、韓国政府も知らない間にアメリカによる一方的な戦争を形式的に可能にする唯一な根拠は国連軍司令部の存在である。
 1996年、韓米連合司令部が出した「連合・合同作戦用語集」によると、韓米連合司令部内に国連軍事停戦委員会はスタッフがまったくいない一個の独立部署としてだけ存在する。誰が見ても1978年の韓米連合司令部の創設と共に、国連軍司令部の作戦統制権はすべて韓米連合司令部に移譲されたように思われる。しかし、「韓米連合軍司令部の設置に関する交換覚書」には「1954年に署名された韓米合意議事録第2項の範囲内で行われた約定で、また、この約定は韓米連合司令官が米軍4星将軍として国連軍軍司令官及び駐韓米軍司令官を兼任する間、効力を持つことと理解する」ということになっている。金ミョンギ敎授によると、これは韓国軍を国連軍司令部の作戦指揮権下に置くようにした韓米合意議事録の第2項の規定を受けており、国連軍司令官を兼任する限りでのみ韓米連合司令官の作戦権は意味があるわけである。韓米連合司令官は作戦「統制権」を持っているが、国連軍司令官の名前では依然として作戦「指揮権」を持っているわけである。国連軍司令部が解体されているなら、韓米連合司令官の作戦統制権は韓国政府の作戦指揮権内にあるということが妥当であろうが、作戦指揮権を持っている国連軍司令部はまだ解体されていない状態である。
 韓米軍事同盟に対する韓国軍部の依存心は、現実を勘案するとしても過度な面がある。韓米連合司令部の解体が韓国軍部としては心理的パニック状態を引き起こす問題であろうが、国連軍司令部の解体は少しケースが異なる。北朝鮮の軍事的占領を想定している韓国軍としては、北朝鮮の地域を占領した後の軍政を実施する段階のシナリオで深刻な問題を発見する。北朝鮮の占領主体は韓国軍ではなく国連軍司令部になるからである。このような理由のため、韓米連合司令部とは異なり、国連軍司令部の解体問題は米軍と韓国軍に根本的に異なる利害関係の衝突を引き起こすテーマである。一方、韓国と日本の平和団体にとって、国連軍司令部は他のテーマと違って「連帯」ではなく「連合」レベルでの統合を要求する共通の問題であるという利害関係にある。韓・日・米の平和勢力には、より戦略的な優位を持たせる反面、軍部勢力にはますます葛藤を増幅させるテーマであるわけである。
 国連軍司令部、それは韓・日・米軍事同盟の最大のキーで一番弱い環である。
 
 国連軍司令部(United Nations Command)と日本の関係
 1950年7月1日、日本の官房長官は記者会見で、「米軍の出動が国連の警察措置である以上、一部の人々が占領軍(駐日米軍)の命令に従って戦闘行為などに従事することは当然である」と言っている。そして、1950年7月3日の次官会議は朝鮮戦争について次のような方針を決定した。
 ① 米軍の軍事力発動に協力することは当然である。② 将来、日本が国連に加盟するためにも有利である。③ 従って、憲法と法律の範囲内で必要な行政措置-船舶、陸上等の輸送力の増強、電話通信の架設、海上保険の臨時措置及びこれに必要な措置-をとる。上の方針の中で③は、今日論じられている新ガイドラインのひな型であるわけだ。
 また、1951年9月の吉田・アチソン交換公文を通じて、韓国内の国連行動に参加する軍隊に対して施設及び役務を提供することに合意したことに基づき、6ヶ所の基地を国連軍司令部が自由に使えるようにした。これらの基地は、「日米安全保障条約」に縛られて作戦出動の際に事前協議の必要な他の駐日米軍基地とは異なり事実上の自由使用が保障されている。1954年2月19日、アメリカと日本は「国連軍地位協定」(日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定)を締結して、「国連軍の合同会議を通じ、日本政府の同意を得て「日米安全保障条約」を根拠にアメリカは日本の施設及び区域を使用することができる」と規定している。国連軍司令部に対する基地提供の義務は国連軍撤退後90日以内に終了するようになっていて、国連軍司令部が解体されると国連軍による日本国内の基地使用権も消滅する。1975年の国連総会決議により、国連軍司令部の解体が決議されて以後、アメリカとしては日本国内の基地使用権の問題を深刻に苦悶せざるを得ず、いつかは実現される国連軍司令部の解体に備えて、日本と共に有事法制を推進するようになったのだ。実際に、1989年、新ガイドラインの付属協定として締結された日米物品役務相互提供協定(ACSA)によって、国連軍司令部が解体されたとしてもアメリカの日本国内の基地使用問題は何ら差し支えがなくなるわけである。これらの一連の過程は、日本が朝鮮戦争の時期から、国連軍司令部に対する協力という美名の下で再度軍国主義の道に入って行った過程を見せてくれており、これらの基地が駐韓国連軍司令部に含められているということは、国連軍司令部の作戦指示により駐日米軍基地の武力が自動的に韓国での戦争に介入できるという事実を意味する。
 国連軍司令部は誰もが名目上の機構として認識しているが、実際戦争が勃発したときには韓国と日本の米軍、韓国軍、自衛隊の一部までも戦争に参加させる枠組みを持っている。日米安保条約第6条は「日本国の安全に寄与し,並びに極東における国際平和及び安全の維持に寄与するため,アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」と記されている。日米安保条約は韓米安保条約とは異なり、安保の対象地域が「日本本土」に留まらず「極東」を範囲としている。しかし、これらの相互防衛条約だけで朝鮮半島での即時的な戦争は不可能である。どうしても国連安保理の決議が必要であるからである。しかし、国連軍司令部の存在により、国連安保理の決議過程なしに朝鮮半島での即時的な戦争と、米軍と自衛隊は動員できるわけである。即ち、日米防衛条約と吉田・アチソン交換文書により、日本自衛隊は国連軍司令部の指揮により韓国での戦争に即刻介入できるのだ。国連軍司令部は恐るべき武力を行使できる権限を持ったわけである。違法的な要素も持って誕生した国連軍司令部にこのような非正常的な武力が集中されているということは、まさに国連軍司令部の危険性を証明することにほかならない。
 このような点に照らしてみて、日本の平和運動勢力と韓国平和運動勢力との今までの連帯は、国連軍司令部解体の問題に於いてだけは、連帯ではなく「連合的組織体」として発展させなければならぬ必要性が提起される。
 
 国連軍司令部の解体のための巡礼
 私はこのような発見を幾度か訴えを込めて文章を通して発表した。駐韓米大使と副大使に会う機会があった時や、靑瓦台のNSC(韓国国家安全保障会議)の担当者たちに会った席でもこの問題について話をした。マーク・ミントン駐韓米副大使は国連軍司令部問題に対する私の直接的な質問に対して、次のように答えた。『どんな体制であれ50年間も変わらず続いてきたということはそれ自体として問題である。それで、我々も駐韓米軍再配置の作業に入ったわけである』。そして続けて、『国連軍司令部の問題に対して韓国民はきちんと考慮に入れなければならないだろう』と語った。前者は肯定的なメッセージと解釈されるが、後者は否定的なメッセージと解釈される。しかし、外交官として国連軍司令部の解体を公には言えないのは当然のことであるので、彼の答えの中での定数は後者で、変数は前者であろう。即ち、米軍政策の変数が大きくなっていると受け取っても間違いではないだろう。
 すでに駐韓米軍再配置の協議過程で、アメリカは板門店を守る国連軍司令部警備隊の任務を韓国軍に全面移譲する方案を議論したことがある。駐韓米軍のイラク出動発表は、時によっては、これらの変化が激しく行われかねないということを決定的に証明した。事情が差し迫ってきた。金九(訳注:キム・グ、独立運動家で重慶臨時政府主席を務めた)先生が光復軍を率いて国内進行を試みようとした矢先に日本の降伏発表があり、この歴史的な機会の消失は、解放政局で民族が主体になれず外勢に運命を委ねなければならぬ過程に続かざるを得なかった。我々はもしかしたら我々の力ではなくて、アメリカの論理によって、いつの日か国連軍司令部解体の発表を聞くようになるかも知れない。アメリカは国際社会ですでに国連軍司令部を維持する名分を失って久しい。また、軍隊に対する文民統制の原則に立脚してみるとき、アメリカに於いての国連軍司令部は奇形的なシステムに違いない。国連憲章では国連の軍事力は国連軍事参謀委員会で指揮することになっており、アメリカは1980年代のゴールドワーター-ニコルス法案により、米合同参謀本部の議長をここに派遣するようになっている。国連軍司令部は現在、米国大統領ではない米合同参謀会議議長が指揮するようになっている。問題は、万が一、合同参謀本部議長が大統領の決定に先立って行動する可能性がるということである。マッカーサーのようにだ。これは米軍再配置の問題よりずっと上位の政策問題である。最近、アメリカ内でも国連軍司令部の解体の話が流れでたが、今は跡絶えたことを見過ごしてはならないだろう。国連軍司令部は韓米連合司令部に比べて韓米同盟と直接的な関係がない。国連軍司令部の解体の要求は韓国軍事同盟と一旦別の問題として取り上げる必要がある。
 
 私は悩みが多くなった。私には何ができるだろう?
 5月のある日、時ならぬ春の嵐が荒れた夜であった。ソウルから家がある江華に渡っては来たが、すでにバスの運行は終わっていた。車が通っていない農道に沿って家に向かって歩いてくる道は風がやはり強かった。体を45度以上も屈めてやっと風に向かって歩けるぐらいだった。南風であった。大洋を過ぎてここまで吹いてくる風であったのである。数千年の間、シルクロードの三大幹線の中の一つである海路を可能にした文明と交流の風であった。一瞬も同じではないが限りない繰り返しは文明交流の風を引き起こした。速く頬を触りすぎる風の流れは掴むことはできないが、限りない出会いが流れを作ることと同様に、そして、その無数の出会いの中の一人と出会えたように、私もまたそうしなければならないと心に決めた。風のように歩くことにした。江華の家を出て国連軍司令部が管轄している休戦ラインに沿って高城(コソン)まで歩き、そして、その東海岸を南に釜山(プサン)まで行って、日本の佐世保基地に渡り、そこから東京まで歩いて横須賀、座間、横田の三つの国連軍司令部の基地を回る。その後、沖縄に行って、嘉手納、普天間、ホワイトビーチ基地を歩いたあと、また韓国に戻って国連軍司令部がある龍山(ヨンサン)基地まで。ざっと3,000㎞を越える道程である。ソウルと釜山を7回往復できるほどの距離である。簡単ではなかった。何日間か「国連軍司令部の解体」のための巡礼について回りの人々に話したときに、その反応はおよそはかばかしくなかった。心が揺れた。やはり反対より厳しいのは無関心である。私は何かを衝動的に決定したり、準備もせずに進めるほうではないが、今回だけはどうしてか気が急く。長い間米軍を観察してきて得られた直感が私を動かしていた。何日かの間悩む私は、また夜道の風の前に立っていた。風が顔を過ぎてゆく。自分を解ってほしいとすがることもなく、忽然と現れて知らない間に過ぎてゆく。そうだ。それが風の流れであったのだ。風と共に私はまた心に決めることができた。
 6月20日頃、私は江華の家を出る。変わったことがなければ、秋になって再びこの家に帰ってくるだろう。■
 
 
 
 
 
 李時雨 略歴
 
 1967年 忠淸南道 禮山で生まれる
 1988年 新丘專門大・写真課を除籍される
 1988年 [韓国文化運動研究所]の写真講師
 1989年 [労働者民族文化運動連合]の創作団長
 1990年 [全国労働者文化運動団体協議会]の風物(訳注:プンムル、農楽)分科長
 1991年 [全国労働者文化運動協議会]の創作団長
 91~95年 [8.15汎民族大会]文藝企画団
 91~94年 [全泰壹烈士精神継承 全国労働者大会 藝術企画団]
 1993年 [労働者民族文化運動連合]の議長代行
 1993年 [人と写真]展 -ソウル・中区文化館
 1995年 [民族文藝 耕していくシンパラム(やる気)]の創立初代議長
 1995年 [国家保安法]の利敵団体構成の嫌疑で拘束される
 1997年 李時雨 5回連続 写真理論発表会 – ソウル・シンパラム小劇場
 1998年 [統一を迎える <晩春>文益煥牧使記念事業]の文藝部長
 1998年 ノーベル平和賞受賞者・ジョーディ・ウィリアムズ(Jody Williams)歓迎晩餐スライドショー
     :ソウル・ヒルトンホテル
 1998年 [仁川映像美術祭]の招待作家
 1999年 [南北基本合意書實踐開幕行事]のスライドショー・世宗文化会館
 1999年 写真展 [非武裝地帶での思索] – 藝術の殿堂
 1999年 写真集 [非武裝地帶での思索] – 人間愛 出版
 1999年 写真展[終わらなかった戦争 対人地雷] -ソウル・中区文化館
 1999年 写真集 [終わらなかった戦争 對人地雷] -韓国敎会女性連合会 出版
 1999年 ハーグ万国平和会議の招待写真展 [韓国の対人地雷の被害者たち]-
     オランダ・ハーグ・コングレスセンター
 1999年 ドイツ韓人会招請写真展 [非武裝地帶と對人地雷]-ドイツ・ルール大学
 1999年 基督敎放送のサイバー人間の鎖招待写真展 [非武裝地帶での思索]
 1999年 [文學藝術靑年共同体](準) 副委員長
 1999年 DMZ 2000 参加作家
 2000年 [平和藝術人国際連帯] 事務處長
 2000年 [漢江から西海へ平和の船を浮かべる行事] 事務局長
 2000年 ASEM2000 民間フォーラム招待展示会 [平和] -ソウル・建国大学・新千年館
 2000年 フィンランド公営放送で李時雨の活動を素材にしたドキュメンタリー・「鉄の地 Land of Iron」を放送
 2001年 ノーベル平和賞団体・国際対人地雷禁止キャンペーン(ICBL)の招請写真展
   – ワシントン・全米州機構(OAS)
  ワシントン・ジョーンス・ホプキンス大学の招請写真展や講演会
 2001年 日本・東京 日本対人地雷禁止キャンペーン招請写真展
  – 東京国連大学
  – 日本・大阪 韓人敎会招請写真展 – jyusyo社会館
 2001年 CBS・時事ジョッキー「今日と明日」で1年間 `李時雨の統一紀行`の進行
 2001年 インターネット `統一ニュース`のホームページに?時雨ギャラリー常設展示
 2001年 行政自治部 CDROM`5千年の薫り`の中のドルメン支石墓の写真撮影
 2002年 統一ニュースに「西海交戰と北方限界線問題について」寄稿
  http://www.tongilnews.com/article.asp?menuid=203000&articleid=20234
 2002年 統一ニュースに「京義線と国連軍司令部の問題について」寄稿
  http://www.tongilnews.com/article.asp?menuid=203000&articleid=25330
 2003年 韓国・文化日報の「韓国の平和人物100人」に選ばれる
  http://news.media.daum.net/society/others/200305/31/munhwa/v4357447.html
 2002年 日本・三千里鉄道の招請の写真展と講演会 – 名古屋 YWCA BIG SPACE
 
 2003年 統一ニュースに[駐韓米軍核に対する報告]を寄稿
  http://www.tongilnews.com/article.asp?menuid=203000&articleid=28714
 2002年 日本地雷撤廃キャンペーン(JCBL)の招請写真展 – 東京・銀座 sudeu美術館
     (8月13日-18日)
 2003年 釜山 [民主公園]の停戦50年記念ハロー展に動映像 [国連軍司令部]を出品
 2003年 統一ニュースに 「国連軍司令部の解体について」寄稿
  http://www.tongilnews.com/article.asp?mainflag=Y&menuid=3&subid=3&articleid=36517
 2003年 スペイン・バルセロナ新聞にインタビュー [駐韓米軍の核について]
  http://www.siwoo.pe.kr/ez2000/ezboard.cgi?db=lec_peace&action=read&dbf=1150&page=1&depth=2
 2003年 対人地雷被害者たちの写真展 [苦痛の上の美しさ] 企画-ソウル・中区文化館
 2003年 散文集 [民統線平和紀行]を出す-創作と批評社 民統線=民間人統制線
 2004年 散文集 [民統線平和紀行]がフランクフルート国際図書展への出品作の中の韓国の本
    100冊に選ばれる
 2004年 統一ニュースに「国連軍司令部の科学兵器保有について」寄稿
  http://www.tongilnews.com/article.asp?mainflag=Y&menuid=101000&articleid=43541
 2004年 日本地雷撤廃キャンペーン(JCBL)の招請写真展 – 東京・新宿・アイテムフォーとギャラリー
     (シリウス) (6月10日~16日)
 2004年 国連軍司令部の解体に対しての巡礼瞑想
 
 Lee Si-woo profile
 
 Born in 1967 at Yesan Chungcheongnamdo, Korea
 
 88 Shingu College Removal from a Register
 
 93 Group exhibitions [Human and Photograpy]
  – Seoul Sinbaram Small Theatre
 
 97 Lee si woo Photograpy Theory Symposium
 
 98 Invited Artist, Nobel Peace Prize Jody Williams Reception Slide Show
 
 98 Invited Artist, Inch n Image-Art Festival
 
 99 Solo Exhibition [ Thinking at the D.M.Z]
  – Seoul Art Center
 
 99 Publishing Photo-Book [Thinking at the D.M.Z]
  – A Report of Pubulication
 
 99 Solo Exhibition [Unfinished War - Anti-Personnel Landmines]
  – Seoul Junggu Art center
 
 99 Pubulishing Photo-book [Unfinished War
  :Anti-Personnel Landmines] – Korea Church Women United
 
 99 Invited Artist, Solo Exhibition 99′ Hague Peace Appeal
  [Anti-Personnel Landmines Victims of Korea]
 
 2001 Invited Artist, Solo Exhibition, lecture
  Nobel Peace Prize ICBL(International Campaign Ban Landmine)-Washington D.C OAS, Johns Hopkins University
 
 2000 Finland Public Management-TV televise my story document [Land of Iron]
 
 2001 Invited Artist, Solo Exhibition, lecture
  JCBL(Japan Campaign Ban Landmine)- Tokyo UN university
 
 2002 Invited Artist, Solo Exhibition, lecture
  Korean residents in Japan Organization – Nagoya YWCA-Big Space
 
 2003 Pubulishing Essay Book [Civil Control Line Peace Tour]
  A Report of Pubulication